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梨作り(なしづくり)のはじまり

八千代市の梨作りは、どのようにしてはじまり、広まったのでしょう。

今から90年くらい前の八千代市村上

今から約90年前(大正のはじめごろ)、今の八千代市村上(むらかみ)あたりでは田も少なく、米をつくって売る農家はほとんどなく、麦といもをつくりながら、かいこを育ててまゆを作ったり、鯉(こい)を育てて売りながらくらしていました。
しかし、かいこを育てる仕事は、朝早くから夜おそくまで、毎日とてもいそがしく、それでも売る時は安いものでした。また、鯉を育てる仕事もうまくゆかず、生活は苦しいものでした。

宮崎淏(きよし)と宮崎規矩治(きくじ)が梨作りをはじめるまで

そのころ、宮崎淏は、茂原(もばら)の農業学校の寄宿舎(きしゅくしゃ)に入って勉強をしていました。また、宮崎規矩治は臼井(うすい)の中学校に通っていました。二人は子どものころからとても仲(なか)のよい友だちでした。
 淏は、農業学校で、梨作りをしてくらしているよその町や村があることを知り、自分たちのところでも梨作りができないかと考えました。このことを規矩治に話し、今の苦しい生活を少しでもよいものにするためには、梨作りを成功させることだと二人は考えました。
 そして、二人は市川市柏井(かしわい)で梨作りをしている農家へ見学に行きました。その後、埼玉県の安行(あんぎょう)と、千葉県の佐倉市から「長十郎(ちょうじゅうろう)」と「早稲赤(わせあか)」の苗木(なえぎ)、250本を買い、いも畑に植えて育てはじめました。大正3年、淏が20さい、規矩治は18さいのころでした。

はじめての梨作り

梨の苗木は、植えてから実がなるまでに3,4年かかります。いも畑を少しずつつぶし、はたして成功するかわからない梨の木を育てることは勇気のいることでした。
 やっと小さな実をつけるまでになりました。でもとても売りものになるようなものではありません。どうしたら、よい梨ができるのか、二人にはわからないことばかりでした。梨が病気にならないための消毒や虫とり。木を大きく育てるための肥料(ひりょう)のやり方。よいえだをのばしてりっぱな木にするための剪定(せんてい)。実を虫や鳥から守るための袋(ふくろ)かけなど。ひとつひとつのことを以前から梨作りをしている家に行って、教わらなくてはいけませんでした。

市川や松戸の梨作りに学ぶ

市川は、江戸時代から梨作りをしていました。松戸は、明治21年に「二十世紀」を発見したところでした。二人は、自転車に乗って片道「3時間」もかかる市川や松戸に、梨作りの方法を教わりに行きました。病虫害(びょうちゅうがい)になやんだ淏は、1週間も通いつづけたこともありました。
 そんな努力のかいあって、数年後、10個のうち1個ぐらいのわりあいで、売りにだせるような梨ができるようになりました。それをリヤカーにつんで成田街道(かいどう)に売りに歩きました。

村に梨作りが広がる

はじめ、村の中には、そんな二人を見て、かわり者だと思っている人もいました。それでも二人は、梨作りの研究をつづけ、昭和12年、はじめて東京の市場に出荷できるようになりました。しだいに近くの農家でも梨作りのよさを知り、自分の家でもやってみようとする人も少しずつふえ、昭和15年には9けんになりました。
 このころの梨作りは、今の方法とはちがい、ひとつひとつの仕事が手間のいる、時間のかかる仕事でした。肥料は「人糞(じんぷん)」を使いました。おけに人糞を入れて、てんびんぼうでかたにかつぎ運びました。消毒は、薬のはいっているおけに手こぎのポンプを入れて、一人がポンプをこぎ、もう一人が薬を梨にかけるものでした。

出荷のための荷づくりも「二十世紀」は自分の家で木のはこを作り、そのはこにワラをしいて、きずがつかないように、ひとつひとつていねいに紙につつんで入れました。このような仕事は夜の仕事で、夕食を食べてからおそくまでかかりました。

二人は、市場で安心して買ってもらうためには、この地方でもっとたくさんの梨を作り有名にすることだと考え、村の人たちに梨作りをすすめ、自分が研究(けんきゅう)した技術(ぎじゅつ)や方法をどんどん教え広めました。そのため昭和23年には、市内で120けんの家で梨作りをするようになり、村上の宮内(みやうち)に「阿蘇梨業組合(あそりぎょうくみあい)」を作りました。二人がはじめてから34年目のことです。八千代市では、淏・規矩治のこのようなはたらきをいつまでも人びとに伝えるために、昭和37年、二人の家の近くに「頌徳(しょうとく)の碑(ひ)」をたてました。

●「わたしたちの八千代市 平成7年度版」(わたしたちの八千代市改訂委員会/編集、八千代市教育委員会/発行)を基にして作成しました。
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